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代々の儒者「市河米庵」

 10月1日の書道新聞の「江戸の儒者」と題した記事で、丁度「市河米庵」のことを読んだ時に、米庵が書いた阪出墾田之碑(市河米庵 書)の写真とこの碑について説明を見ることができました。



 市河米庵は巻菱湖と貫名松翁とともに、幕末の三筆と呼ばれた人ですが、貫名松翁の書もtianpianさんの“書逍遥”の中でよく見せていただいておりました。それで、この米庵の記事がとてもタイムリーだったのです。
 市河蘭台、寛斎そして三代目が米庵となり、市河家三代の儒者ということになります。
 蘭台は上野(こうずけ)国甘楽郡(群馬県仁田町の辺り)に住み、儒学のみならず書にもすぐれた人だったそうです。
 そして、2代目の寛斎は学問を志して江戸へ。学問を修めたのちに富山藩に招かれて教授となります。寛斎は詩作にとても長けた人だったそうで門人の育成にもあたり、柏木如亭、菊池五山などの門下生がいます。
 その3代目が米庵というわけですね。
 米庵という号は宗の米ふつを慕ってつけらたものです。米庵の青春時代は文化・文政から幕末にあたり、その時代は儒学がますます盛んになり、漢詩漢文を作ることが全国的に行き渡った時代なのだそうです。
 また、当時の歴代の書家の論説が次々に発表されて書論を読むことが一般的になり、その上、法帖の刊行も儒者に大きな影響を与えたとされています。法帖の出版のピークが享保の改革で長崎貿易が緩和されたことともつながっていきます。
 米庵は当時入手しうる様々な碑版や、明清の書も臨書したとされています。父寛斎がなくなったあと、加賀前田公から招聘されて金沢に出任し、五年後に江戸へ戻り、書塾小山林堂で門人の育成に力に注いだそうです。最盛期には5000人の門人がいたとされていますから、全国的に米庵の書風が行きわたることにつながりました。
 米庵の学書は、書論、書法、書体、書材、文房具と多岐にわたり、多くの資料に基づいて綿密な基礎研究を行なう方法です。そして、米庵は書画骨董の蒐集でも知られ、特に文房具の蒐集に力を入れ、その中でも筆には心血を注いでいたそうです。書道新聞にその、「米庵蔵筆譜」が載っていますが、218枝の筆の図譜と解説がされているそうです。

 2代目、3代目・・・人間が何かを目指すときに、0からの出発で人生をすべてかけたとしても、なしうる事なんて限られたもの。その道にすぐれた人に出会ったときに、父、祖父と辿っていくと脈々と受け継がれたものがあるはず・・・と度々思います。
 米庵の場合も祖父の血、父の薫陶を受け、時代の流れもあり、そして、研究に多大な時間を割き、多くのものを残したのだろうと。

 碑を見たときに、その背景を少しでも知っていれば、作者を少しでも聞いたことがあれば身近に感じますよね。皆さんも市河米庵の書いた碑に出会いことがあるかもしれませんね!
 私も、福岡の碑のお話がせめて少しでもできるようになりたいと最近思っております。
                         (資料:書道美術新聞第831号)

 
by sumi-moji | 2005-10-07 22:55 | ◇書◇の豆知識